社員の成長と評価の狭間で考えた、送別会の夜

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今日は平日。会社の定期人事異動に伴う送別会が開催された。毎年7月1日に行われる異動に先立ち、移動対象の同僚たちを送り出す恒例行事だ。年齢も立場もバラバラな職場の仲間たちが一堂に会する送別会は、単なる飲み会以上に多くの気づきと学びがあった。

「話し上手は得をする」? 飲み会で感じたこと

一次会の席では、若手から中堅、そして所長や現場長までさまざまな層の人たちが集まり、和やかに杯を交わした。その中でふと思ったのが、「喋りの上手さと評価」の関連性だ。喋りが上手な人は自然とその場の空気を和ませるし、同じ話でも説得力が増す。

一方で、喋りが得意でなくても黙々と業務をこなす人がいる。むしろ、そういった人こそ重要な業務を一手に引き受けていたりすることも少なくない。それでも評価は喋りがうまい人に集まりやすい――そんな現実を改めて実感した。

とはいえ、喋りが上手い人はやはり好かれやすい。これは飲み会の場だけでなく、普段の仕事にも通じる要素だと思う。だからこそ「伝える力」も業務の一部だと感じるようになった。

二次会で交わされた「本音の会話」

場所を変えた二次会では、世代が近い同僚たちと現場長といった上層部も混ざり、普段なかなか話せないテーマが飛び交った。特に印象に残ったのが、社員の評価に関する話だ。

ある後輩社員が、「自分は結果を出しているのに評価されない」といった疑問をぶつけた。社長の答えは明快だった。「当たり前の仕事は当たり前として評価する。評価されるには目に見える成果と、自らアピールする力も必要だ」と。

確かに、自分の頑張りを見てもらうには”見える化”が欠かせない。自己アピールが苦手な人にとっては厳しいかもしれないが、組織の中で相対的に評価される以上、避けられない現実だと僕も感じた。

給与・ボーナスの価値と自分の限界

その後輩の疑問を聞いて僕が思ったのは、「評価にこだわりすぎるよりも、長期的に成長を目指す方が建設的ではないか」ということ。

仮に評価が上がって、月5,000円、年で6万円アップしたとして、それが本当に人生にとって大きな意味を持つのか?それよりも、自分のスキルや成果を伸ばして、5年後、10年後にもっと大きな価値を生み出せるようにする方が理にかなっている。

長勤や残業をただ増やすのではなく、自発的に成果を出し、周囲を巻き込んでプロジェクトを進めていく。そうした行動こそが、自分の存在価値を高める鍵になると信じている。

管理職の役割とは? プレイヤーとの違い

今回の送別会で、管理職として異動する人も多くいた。その中で強く感じたのが、「プレイヤーとして優秀であることが、必ずしも管理者としての適性に繋がらない」ということだ。

人を評価するという行為は、技術とは違う難しさがある。現場で結果を出すのは一つの才能だが、それを他人に伝え、引き出し、育てていく力はまた別のスキルだ。管理職には「人を見る力」と「人を導く力」が求められている。

僕自身も、将来的にそうした立場になるかもしれない。その時に、「評価される側」だけでなく「評価する側」の視点も持てるよう、日々学んでいかなければと思った。

感情の持ち方と自立した働き方

最後に思ったのは、「評価に一喜一憂しすぎない心構え」が大事だということ。もちろん評価が上がれば嬉しいし、下がれば悔しい。それは自然な感情だ。

しかし、他人に怒りや嫉妬を抱いても、自分が成長するわけではない。その感情をエネルギーに変えて、自分を改善し、挑戦する糧にしたい。

「なぜ評価されなかったのか?」ではなく、「どうしたら次は評価されるのか?」を考える姿勢こそが、社会人としての自立だと僕は思っている。

まとめ:送別会は未来の自分を考える場でもあった

送別会というと、一見華やかで感傷的なイベントだが、実は自分自身を見つめ直す良い機会だった。

仕事、評価、コミュニケーション、マネジメント、そして感情のコントロール――あらゆる要素が詰まったこの一夜の中で、自分に足りないもの、伸ばしていきたい力を再認識することができた。

これからも評価に依存せず、自分自身の目標と価値観に沿った働き方を目指していきたい。

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